『さや侍』という映画を見て

映画『さや侍』でのっけから訳のわからないシーン。道を歩いていると、三味線のお竜(りょう)にバチで切り付けられ、はたまたパキュン(ROLLY)に撃たれ、そして骨殺師ゴリゴリ(腹筋善之介)には首の骨をへし折られる。そのたびにギャーと悲鳴は上げるものの、なぜか死なない。特別彼が不死身だという設定でもないらしく、この一連の殺しのシーンにどういう意味があったのかはわからない。ただその後は、今までとは違って、とてもわかりやすい作りになっている。

野見がイカ藩を脱藩し、捕まったのがタコ藩という設定からしてそうだ。

笑うことを忘れてしまった若君を笑わせる為に、1日1ネタを条件に、30日以内で笑わせることが出来たら無罪放免(他藩の脱藩の罪を裁けるのか疑問だが)、出来なければ切腹というもの。最初は独自で、途中からは門番(板尾創路、柄本時生)の協力を得てネタを考えていく。

これはつまり、若君を笑わせる為でありながら、同時に観客をも笑わせようとしている。こういう形で笑いを見せられても、あまり笑えるネタは多くはなかったが。

刀を捨てた父親に対し、娘はかなり反発し「父上はそれでも武士ですか」という言葉さえ言い放ってしまう。

しかし、真剣に笑いに立ち向かっている父の姿を見、次第には協力・応援していくようになる。

最後は、結局若君を笑わせることが出来ずに終わってしまう。

殿様(國村隼)は、観客たちの雰囲気も察して救いの手を伸べようとするが、彼は一切を受け入れて切腹して果てる。しかも介錯を拒否して。この結末は少々驚き。

最後に見せた侍としての矜恃。生き長らえて娘を育てることを恥とし(多分)、父の死に様を見せた方がより有益だという判断もあっただろう。

こういう展開ならば、主演を別な人間にした方が良かったのでは?

松ちゃんだと思わせといて実は、という計算もあったのだろうが、こちらは松ちゃんだと思っているから(そう勘違いした人も少なくないはず)、途中までのギャグの展開とラストがしっくりこない。(素顔は松ちゃんと違った、風采の上がんないおっさんなんだけどね)

ここは残念な点だった。殿様は野見の救済の方法を考えていたにも拘らず、奉行(伊武雅刀)は笑いとは声を出して笑うことだという考えで切腹を命じる。穿った見方をすれば、これは硬直化した現代の政治家・官僚を揶揄しているのかもしれない。

父の遺言を娘に伝えた僧(竹原ピストル)の歌も良かった。松本人志は、「こういうのが売れなければならない」と言っているそうだが、他の歌は知らないが、この歌に限って言えば間違いなくいい。CD化もされるそうだね。

あと、柄本時生は元々ボーっとした顔をしているが(彼だけでなく兄貴もそうだ)、ここでは必要以上に口をあんぐり開けている場面が多かったが、ちょっとわざとらしい。

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奇跡という映画を見て

映画『奇跡』の物語は兄弟の他に、彼らの友達もそれぞれ持っている願いを叶える為に、通過点である熊本へ冒険旅行をすることを通して、子供たちのちょっぴりの成長も描いている。両親の復縁で大阪に戻ることを望んでいる兄弟の他に、死んでしまった愛犬を生き返らせて欲しかったり、女優になりたかったり。

是枝監督のインタビューを何かで読んだが、大きな奇跡は起きないが、日常生活は小さな奇跡の連続で出来ているという趣旨の答えをしていた。

そして、この映画を『スタンド・バイ・ミー』と比較して批評することも多いように見受けられる。確かにそれは言えるだろう。

しかしそれよりも、この映画には、奇跡を起こすことではなく、奇跡を起こす(若しくは希望・夢を叶える)ことを望むことによって、個人の考え方や行動がそちらに向いて一歩ずつ近づいていくんだよというメッセージが込められているように思える。それを他人や社会との関わり合いの中で、子供たちがどう感じていくかを描いているのだと思う。それを見守る大人たちもいいけど。

「つばめ」と「さくら」がすれ違ったとき、航一と龍之介の兄弟は、家族が一緒になることではなく、(もっと大きな)“世界のこと”をお願いしたというラストにもちょっと嬉しさを感じてしまう。爽やかとはちょっと違うけど、観終わったあとの清々しさが心地いい。

女優になりたいと言う恵美役の内田伽羅って子役は、何となく雰囲気が成海璃子に似ていた。りりィに、昔の毒気がすっかり影を潜めてしまったのには、ある程度ショックだった。あとJR九州とJR東日本企画の企画に、是枝裕和が乗った。

三作前の『歩いても歩いても』が好きだったが、そこで夫婦役を演じた夏川結衣と阿部寛が、ここでも起用された(ついでに原田芳雄と樹木希林も。もひとつついでに、この二人はまたもや夫婦役)。が、一方は鹿児島でもう一方は福岡。同じフレームに入ることも無く、撮影も別々にやったような感じだった。

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『トゥルー・グリット』という映画を見て

コーエン兄弟としては珍しく、ストレートな題材である。元ネタは、ジョン・ウェイン主演の『勇気ある追跡』。

彼にアカデミー賞主演男優賞をもたらしたことでも有名な作品だが、ジョン・ウェインという俳優があまり好きではないせいもあり未見である。

だいたいジョン・ウェインという人は、アカデミー賞が欲しくて欲しくて欲しくて、『アラモ』のときには大々的なキャンペーンを張ったのは有名な話。

そんな彼がアカデミー賞を獲れたのは、同情票が集まったお陰もあるというイメージが強過ぎて、これまで観る機会が無かった。

軸の二人(ジェフ・ブリッジス、ヘイリー・スタインフェルド)がいい。 ジェフ・ブリッジスの酔いどれの感じは、他の映画でもたまに見せるが、堂に入ってるね。

あのしゃがれたような声がいいんだよ。年をとってから良くなってきたよねえ、この役者。

ヘイリー・スタインフェルドも、いい味出してる。

この役はオーディションで獲得したらしいが、役の上とはいえジェフ・ブリッジスやマット・デイモンを向こうに回して一歩も引かずに堂々としている様は、これからの大成を予感させるものがある。美人という訳ではないから、性格俳優みたいな感じでいくといいかも。(素人が口を挟むことじゃない)。

マット・デイモンも、主役でもおかしくない立場なのに、ここではちゃんと分をわきまえた演技をし、しかもそれでなお存在感をアピールできている。いい役者になったもんだ。 詩情という訳ではないが、そういった雰囲気はある。

西部劇そのものが珍しくなったこともあるが、昔ながらのテイストに仕上がっていて、古い西部劇ファンでも楽しめる作りになっている。

コグバーンとネッド(バリー・ペッパー)の対決シーンに流れた音楽は『隠し砦の三悪人』を思わせた。

このバリー・ペッパーと、もう一人の悪人ジョシュ・ブローリンの出番が少ないのはちょっと残念だったが。

ジョシュ・ブローリンは、悪役をやってもどこか憎めないのがいいです。

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映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』という映画を見て

映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』の冒頭からジャック・スパローが出てきたのにはびっくり。もうちょっと気を持たせてもいいのではないかと思ったもんだ。

場面はジャックの相棒ギブス(ケヴィン・マクナリー)の裁判。ジャックに間違えられて裁判を受けることになったギブスを、ジャックは裁判長になりすまし、普通なら縛り首を免れない彼を逃がす手助けをする。

そこから馬車を使った追いかけっこに続くのだが、この流れからしてパイレーツ・オブ・カリビアンらしいし、追いかけっこそのものも楽しいものだった。

しかし、その後の展開はこれまでのシリーズと同じようなもので、特に目新しさがある訳でもない。そこがファンにとっては嬉しいことなのかもしれないが。

黒ひげやバルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)と争いながら、そこにイギリスやスペインの海軍も巻き込みながら生命の泉に辿り着いた一行だが、黒ひげの永遠の命を得たいという望みを逆手に取ったジャックの企みとともに、泉そのものが崩壊してしまうという、落ち着くべきところに落ち着くラスト。

しかし、孤島に取り残されたアンジェリカはどうなるのか、人魚シレーナ(アストリッド・ベルジュ=フリスベ)一緒に逃げた宣教師フィリップ(サム・クラフリン)はどうなったのか。そういう続編があっても無くてもいいような終わり方をしている。

ジャック自身も「一生海賊稼業だ」と言って終わるし、仮にコケてもこれで終われるような作りになっている。あとこの映画は監督がどうこうではなく、もう既にジャック・スパロウというキャラクターがジョニー・デップという役者の色で固められていて、どういう展開になろうともジャック(ジョニデ)の物語になってしまうからじゃないか。彼以外の主演は考えられないし、もし別な役者で作るにしても、かなりな年月を置いて作らないと定着したイメージを覆すには難しいだろうな。その点はバットマンシリーズとは違うところ。

だから、今回オーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイが降板したが、このシリーズは続けられることができたのだろう。

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『小川の辺』という映画を見て

『小川の辺』の音楽はまるで、新日本紀行を思わせるようなテーマ曲。冨田勲に指示した作曲家なのかどうかは知らないが、イメージとしてはあったんじゃないかと思える。

佐久間の脱藩までの経緯や、朔之助と佐久間、そして田鶴や新蔵との関係を、最初に朔之助の言葉で説明させる。この出だしはいいと思った。なぜなら、この映画の目的は、佐久間を探して旅をする間に、関わる人間の思いを描くことにあるのだから。朔之助や新蔵の他に、家で待っている兄妹の両親(藤竜也、松原智恵子)や朔之助の妻(尾野真千子)の思いも。しかも、極力セリフを抑えて、表情や風景で。この点、『山桜』とも通じるものがある。一種のロードムービーのようでもある。

しかし結論から言うと、このロードムービーをもっと徹底させて欲しかった。

江戸時代だから時間はゆっくり流れる。旅も足だからゆっくりだ。それに合わせるかのように、東山の所作もゆっくりだ。狙いはいいんだよな。でも、具体的にどこがどうとは言えないのだが、もうちょっと迫り方があったような気がする。

でも『山桜』よりは、ずっといいよ。

留守を守る家族の様子も良かった。

父親は歯向かってくるであろう娘を想像して、「いざとなったら田鶴を斬れ」と言い、母を驚かせる。しかしその裏では、もしそうなったらと遺書を認める。母は現実から逃れるように、田鶴との思い出に浸る。妻は夫の武運を祈りながらも、両親の様子を間近に見ながら複雑な思いでいる。

全体的にバランスはいい映画だった。何が足りないんだろう? 東山と片岡愛之助の殺陣も良かったし。

加えて勝地涼の所作も様になっている。

舞台も数多くこなしている3人だから、その点は問題ない。

ただし、途中で東山が上半身裸になる場面があったが、あれは余計だろう。鍛えているのはわかるけどさあ。

新蔵が田鶴に想いを寄せていることは最初からわかっていて、その気持ちに朔之助も途中から感づいたようだが、田鶴も同じ想いを新蔵に抱いていたとは気づかなかった。これは、観ているこちらが鈍感だからか。

藩命を果たした後、朔之助は新蔵と田鶴に「これからのことは二人で相談しろ。国に帰ってもいいし、江戸に留まるのもいい。」と言う。藤沢周平らしいラストで、原作を読んでいなくてもオチはこういうことしか無いだろうなと思った通り。だが田鶴の立場からすると、国へは帰ることはできないだろう。

留守を預かる嫁が「いつもだったら、この時期には咲いていますのに」と言う場面が途中あったが、これで最後は花開いて終わるということは予想できた。できたが、やはり最後に白い花(何の花かはわからん)が咲いた場面は美しかった。父親の遺言書も無駄になってめでたし、めでたし。

ラストが余韻を残すようなものだったので、余計に途中経過が悔やまれる。

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息子がキティ―ちゃんとカフェが好みになりました

私の息子はなんとカフェが好きで、おもちゃも男の子のものなんですが、キティーちゃんが大好きです。

私は家でキティーちゃんのものを持っているわけではないし、テレビでキティーちゃんのアニメを見せたことはありません。

何で知っているのか聞いたら、両親のところでビデオを見せてもらったことがあるようです。

よく覚えているもんだとびっくりしました。ショッピングモールでカフェコーナーとキティーちゃんのコーナーがあると必ず行っています。

妹の三輪車がキティーちゃんなんですが、とても気に入ってるようで、自分の三輪車よりもよく乗っています。

男の子なのにキティーちゃんが好きだなんてと初めは思いましたが、最近ではそんな息子を愛おしく思うこともあります。

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